コンピュータのこと

ようくんのコメント

コンピュータの能力が上がっているので、無駄時間に、そういったインタラクションをより豊富にすれば、新しい世界が見えるのではないか。
と、いうような内容のこと(かなり意訳)をよしきが昔言っていたので、本人が忘れているなら、リマインダーしてあげよう。

別に忘れてないですよ。というか、話は違います。

能力は上がって余裕が出たのは確かですが、使いにくくする方向に使ったら無駄ですよね。例えばMS Officeのスマートメニューみたいに使えないものとかありますし。ようくんの例ではちゃんとユーザーに有意義な情報がそっとした感じで伝わっているという例になっているので僕も良いと思いますが、その実行効率が良いものかどうかとは話は別ですよね。

Windowsの場合で言えば、コードの90%くらいはMS-DOSから続く過去互換性を保つためだけに存在しているそうなので、実行時にも相当無駄は生じていると思われます。また、下に書くように安定性の低下と、もっと面白い機能を考える余力が過去互換性のテストに食われているという面があるでしょう(Windowsでは)。

suikanさんのコメント

Altoはフルカラーじゃないですし、オープンなハードウェアに対応する一般性を持っていたのか疑問に感じます。

実はALTOはすごかったらしいんですよ。カラーモデルは実際にはなかったと思いますが、アーキテクチャーそのものにはカラーであることを制限するものはありませんし、入出力も(詳しいことは判りませんが)メモリマップされたI/Oに書き込めるマルチプレクサがあって、外部機器はそのマルチプレクサと話せるようにすればつながるようになっていたのだと思います。だから、キーボードもマウスも同じインターフェイスだったり、楽器のキーボードもすぐにつながりました。

もし、個人向けのコンピュータが別の経路で進化していたら、という議論には説得力はあると思います。

仮に誰かが私のWindowsを塗りつぶして「ほら、Altoのソフトに入れ替えましたよ、とても早くなったでしょ。白黒だけど」ってにっこり微笑まれたらとても迷惑です。そういうことをいいたいんじゃないんでしょうけど。

ソフトというよりは、アーキテクチャの話です。

ALTOの違いは、システムプログラマがマイクロコードを書けるということで、高級言語指向のハードウェアですが、単一の言語に特化してしまっているわけではないということです。

ユーザーとしては、安定した高い品質のソフトが手軽に動かせるなら喜んでCPU MIPSを差し出しますし、私はそうなってよかったと思ってます。そういう方向を指差したのはかつてのPARCだと思っているのですが。

ユーザーの気持ちのところは同意しますが、今が「そうなってよかった」と言える状況であるかどうかということには、古株たちは大分異論があるようです。

昨日の学生さんとの話でも出たのですが、Windows 2000Windows XPがクラッシュしなくなってきているので「コンピュータは安定してきている」という主張をする学生さんがいました。が、WindowsMS-DOS以前のコンピュータが不安定だったか、というと決してそうではなかった、というのがAlanの主張です。61年のB5000はケーパビリティベースのシステムで、"uncrashable"(悪意を持ってクラッシュさせるのは不可能)なシステムだったそうです(だから、ヨーロッパの銀行には、長い間B5000を使っていたところが多かった)。

Windowsやメインストリームのプロセッサを作っている人たちが、例えばケーパビリティーのようなものをB5000などから学んでいれば、今のウイルス騒ぎなどはなかったはずです。また、MS Office系のソフトが高級言語で書き続けられていたとしたら、今のウィンドウズ内にある過去互換性を保つ労力が軽減されてOSの贅肉も落とせていると思われます。

豊田くんのコメント

Screen real estateが小さいこと前提の話はもうどうでも良いので、そろそろ使い切れないほどピクセルがある画面でのインタラクションがどうあるべきかという議論が欲しいところ。

そうですね。ポインティング、という概念の限界か。文字と画像とでは話はまた違いそうです。

また、大人向けと子供向けの乖離もあります。子供(小学校低学年くらい)の場合は、「文字の絶対的な大きさ」が理解力に影響を及ぼすという研究結果があるそうで、低解像度の大きなピクセルで表現された文字のほうが、高精細で小さい文字よりも良いそうです。