京都賞記念ワークショップ

ハイルマイヤーのワークショップ向け講演を聞いた。さらに当時のRCA上層部に対する怒りがこもっていて面白い。65年ごろには試作機はできていたが、特許を申請することにさえも秘密漏洩の危機を感じてしまい、68年まで特許の申請がされなかった。

試作機が動くようになった後、ノーベル賞受賞者のPeter Debyeが来る、と言うときも直接やっている内容を話すことは許されなかった。が、アウトラインだけを話して、意見を聞いたところ、「それはきっとうまくいかないから別のものをやったほうが良いぞ」と言われた。

68年のプレス発表では、LCD付きの窓とか、腕時計とか、飛行機のコクピットに使ったものとかを作っていた。当時のレーザープリンタは、鏡が回転してスキャンしていたが、それをLCDで置き換えられないかという実験もしてうまくいった。腕時計などは「いったい誰が欲しがるんだ」と言われた。

研究を続けたければ、実際の応用と顧客を連れてこい、と言われた。最初に名乗りを上げたのは広告業者で、POSのディスプレイで飲み物を飲んでいる絵を出すような広告をしたい、というものだった。会社はLCDをやりたくなかったので、「プロトタイプを作るのにも2百万ドルはかかる」とはったりをかましたのだが、広告業者は「問題ない。タバコの広告だけでも去年2千5百万ドル使ったのだから」と言われた。それでも上層部はやらなかった。

LCDは日本のエンジニアが実用化したのだが、「自分のビジョンを他の人が達成してくれるのは、苦々しいことではなく喜ばしいことだ」というのが良い言葉であった。

(今は基礎研究が企業の研究所でやりにくいのでは、という質問に対して)。「アメリカの企業の研究所は、戦後、製造から離れた組織として大学のキャンパスをモデルとして作られたが、結局は余り良いモデルではなかった。商業化の専門家も含めた形で研究チームを立ち上げて、ある時点からは彼らがリードする、と言うスタイルのほうが良いかもしれない。それはそうと、ホットな研究分野が時代と共に変わっていくのは当たり前なので、電気工学がはやっていなくてもしょうがない。」。それから、「小さいけど有能なグループで、大きなグループからの批判を跳ね返せるようにしてやるのが重要とも」。

液晶の専門家の先生方の発表。もちろん門外漢ではあるが、ParksPDAのころ少しだけ液晶についても一夜漬けしたので面白い。今や視野角170度か176度か言っているそうだが、ここはひとつ視野角180度とか182度とかのディスプレイを作ってもらいたいところだ。

「原理的に不可能なことを可能にする。」という液晶技術の進歩に関するコメント。プロペラ機の改良でも、ジェット機の発明に負けるとは限らないと言うことか。

バックライトの色を5.5msごとに変えて、画素数3倍でカラー表示するField Sequential Display。すごい。

内田先生が、「このようにきれいなディスプレイができております」と言いながら寿司の写真を見せていたが、あれはきっと寿司ではなくてなんらかのディスプレイに写っている寿司だったのだろうな。内心一人で笑う。

Dichroic Mirror。懐かしい言葉。