両手インターフェイスと"fluency"

diredを使っていると便利だなあ、と思うわけだが、なぜ便利なのかということについて、せっかく他に仕事があるのがいい機会だと思うので(?)、逃避行動として言わずもがなのことを書いておこうかなと思う。

Alan Kayのいった言葉に、「コンピュータ・ユーザー・インターフェイスは両手インターフェイスであるべきである。だいたいもう一方の手が何のためについているのか考えたことがあるかい?」というやつがある。もう一つは、「ユーザー・インターフェイスは学んだり練習したりする必要のあるものであっても良い」というものまる。この裏には、「練習した結果得られる利得が十分に大きく、だんだんと自分の速度で学んでいけるのであれば、学習は苦にならない」という観察がある。

Xerox PARCにおいてAlanのグループがGUIやマウスの普及に大きな寄与をしたということを持って(どちらも彼らの発明品ではないが)、Alanが「誰にでもすぐ簡単に使える」ということだけを賛美している思っている人もいるようだが、決してそんなことはない。彼のこの発言の念頭には、彼が良く使う楽器の例がある。ピアノは人差し指だけでも「咲いた咲いた」くらいは演奏できるが、本当に興味深いことができるようになるレベルに達するには、十分な積み重ねが必要である。ピアノなどはそのレベルに達するまでに何ヶ月も何年もかかるが、それでも得られるものの利得が大きい(いろんな意味で)ので、少なからぬ人が(プロになるわけではないとわかっていても)練習するわけである。

コンピュータの世界で言えば、豊田君や久米さんが大好きだったAge of Empireなどは練習を必要とする両手インターフェイスの典型的な例であろう。豊田君などは、夜な夜な「青銅入りの素振り」と称して青銅の時代に到達する時間を測ったりするほどの猛練習をしていたが、その結果身に付けた流れるような操作(流暢さ、fluency)を駆使して、柴山研内で隠然たる勢力を誇っていた。

真のコンピュータUIも、最初は簡単であっても練習によって人間の知的生産能力を大きく拡大することができるものでなくてはならない。正則式(正規表現)を書いてマッチするファイルをマークして、別のディレクトりに一気にコピーする、というようなことが、両手を使った数ストロークの入力のみによって実現できるようになったとき、人はプロメテウスが盗んだ火をもう一度手に入れ、その威力におののくことだろう(っていうのは嘘だけどさ)。