京大-UCLAの遠隔講義

今日もAlanが話す日だった。京大側から参加したのだが、はっきり言って音響が悪い。でっかいサーバーラックが室内にあってぶんぶんノイズを発生しているし。Timbuktuを使った画像の共有がうまくいったり行かなかったりしていたし、スライドとAlanのアップ画面の切り替えもちょっと恣意的過ぎて、正直ストレスのたまる教室だったな。とはいうものの、気持ちを切り替えて今日の講義録。話題は前回に比べてもさらに哲学的なので難しかったのと、今回は話のストーリーがあるというよりは短いトピックがどんどん連鎖して出てくる感じだったので、メモ取りが追いつきにくく、以下の講義録もまた読みにくいものになる可能性は高いかもしれない。また、間違いなどがあれば基本的に大島の聞き間違いを疑ってほしい。

というわけで、以下がざっとした講義録である。

生物は与えられた環境で生き残れるようになっているのであって、神の視点からみたようにその環境を理解するようにはなっていない。Betty Edwardsの机の例で、ペンを手を伸ばして対象物を測るように、人間が道具を使って世界を見るようになったのは最近である。
人の顔を描くのは先に情報処理が自動的になされてしまって難しい。眉毛の上が何インチくらいか、と言うような知識を持っていること、そして写真を逆さまにしてから(?)それを見て描くように、あらかじめあるコンセプトを破壊してみるようにする、と言う2つの便利な方法がある。

世界には3000の異なる文化や2500の言語グループがある。それぞれは細部を見るととても違う。比較文化学はその違いを見るために作られたわけである。が、別の見方をするとコンピュータ用語で言うパラメータの違いに過ぎない、と言うものも多い。物語を語るに足るだけの複雑さを持った言語、宗教、魔術的なもの、case-based learning、などはすべての文化に共通している。また、類人猿は蛇を怖がるだけではなく、蛇のようなものも怖がる(ここでMcLuhanの話が一度出てきたがあとでまた詳しく述べられたので省略)。

もちろん、すべての文化にあるわけではない要素も多い。読み書き、数学的、演繹的な考え方、世界を科学モデルに基づいて説明する方法、人権、和音の理論、家族グループ(Vendetta)による報復に寄らない法システムなど。

報復によらない法システムの話で、アイルランド人がお互いを殺したり、フツ族ツチ族がお互いを殺したりするのがなぜ起こるのかをエッセイ(brainbarf)として書いても面白い。

(他を攻撃するような)部族のメンバーだと言われることは、侮辱的でもあるが、場合によってはみんななりたがることもある。UCLAフットボールやバスケットボールの試合を見に行けばわかる。

教育の分野で、すべての文化にあるわけではない要素(non-universalな要素)に着目するのは面白い。多くのnon-universalな要素は発明されたものとも言える。公立学校は学ぶのが難しいことを教えるものである。ある軸を考えて、その軸の左のほうにあるのは学校を必要とせずに、大人がやるのを見て遊びとして一緒にやれば学べることがらである。反対側にあるのは、ちゃんと学ぶ必要がある。

USAToday.comには毎週、ニューヨークだけでもなく、あるコミュニティだけでもなく、アメリカ全土で売れた本トップ150が載っている。ウェブ上では売り上げ順だが、それを物語や料理本や宗教本のように左の方にあるものであるか、科学に関する本のように右のほうにあるものであるかを分類すると、左にあるものはまずほとんどない。日本での様子を聞いてみたいところである。

「自分は本を読む」という人が平均して一年に何冊読むかを聞くと10冊程度である。これは相当に少ない。

神経行動学のTGR Bowerが書いた本。大きな丸の中にばってんがあり、そのばってんの左右のところに黒丸がひとつづつ入っているような図形と、それをばらばらにした図形を8週の幼児と20週の幼児に見せる。8週の時点では、ばらばらの図形を見せたときに興奮するニューロンの数と、それを顔のように見える図形として組み合わせてみたときに興奮するニューロンの数は簡単な和になっている。が、20週の幼児だと、部品部品に対する興味は薄れるが、組み合わせて顔のように見えると興奮するニューロンが増える。

あひるのひなの上空を、長い首をして羽が後ろに伸びた鳥を模したダンボールを動かす。首のほうに動かすのと、尾の方に動かすので雛の反応がまったく違う。反対側に動かすと、首が短くて羽が前を向いた鷹のように見えるので。

コンラッドローレンツが鳥の雛のすりこみを実証したが、これはマルキシズムや一部の科学者の信念を大きく揺るがした。

発生生物学で胚の中にどのように神経や血管が伸びるかは興味深い。骨や手などは違う人であっても解剖学的に大体似ているが、神経網や血管の形は人によってまったく違う。あの複雑なネットワークが遺伝子の中に全部かかれているかと言うとそんなことはありえない。神経網の成長はとても分散制御的で、それぞれの神経細胞が胚の中にある化学物質濃度の勾配を調べて、自分で伸びる方向を決めていっている。筋肉繊維が張られるのも同様である。このようにして一度過剰にネットワークを作り、その後不必要なものを消す。

Sticklebackという種類の魚は赤い魚だが、縄張り意識がとても強くて、ある季節に他のオスが自分の縄張りに入ってくると、攻撃して追い払う。が、水槽の何百メートルか先にある道を赤い消防車が走ってきたときは、さらに強く追い払おうと一生懸命追いかける。このように、不自然な刺激に必要以上に反応することをSupernormal Pattern Responseという。これはSticklebackにはあるけど人間にはないものだろうか。

(Sports Illustratedの水着特集やアメコミの雑誌を見せて)今日多くの人が読んでいる雑誌を見ると、必要以上に誇張された筋肉や女性に強く反応することが分かる。

料理本は、自分が理解していないことをするためのやり方である。橋を建てることそのものは50000年くらい前からあるが、最初は落ちない橋であれば良く、より大きな木を探してきて書ければよかった。それぞれ固有の例から原理を分けることが重要。

Marshall McLuhanはどこからともなくやってきた。彼のことをPost-Modernistと見る人もいるが、彼はまったくpost-modernistではない。有名な彼の言葉"I don't know who discovered water, but it wasn't a fish!"というのも、あまり良く理解されていない。彼について書いた本のほとんども彼が言おうとしたことを理解していない。

メッセージを受け取る受信者・受信機は、そのメッセージを伝えるメディア・キャリアに関するモデルを持っていなくてはいけない。ラジオなら、受信機は周波数や信号を搬送波から分離する方法を持たなくてはならない。

McLuhanは、TVで放送する内容が良いものかごみであるかは完全にまったく意味がない、と言った。まずは視聴者がテレビ情報受信者にならなくてはならない。1950年代に彼がした予言のひとつは、「この後数十年の間に、TVで放送される内容はどれもコマーシャルのようになる」というものがあった。当時は、テレビ上のひとシーンはだいたい8秒から10秒くらいだった。15年くらい前は、コマーシャルが1.5秒くらいで本編は2.3秒くらい。今はもう同じくらいになっているかもしれない。

電報がニュースを変えた、と言う学生のエッセイがあった。デュマの小説は新聞上で発表された。アメリカ合衆国憲法も新聞上で討議されたので作ることができた。最近の大統領選挙ディベートで、ひとつの議題に割く時間はどのくらいになっただろうか。昔は、一日かけてひとつのことを話すのは珍しくなかった。

最近書き言葉を得たアフリカの部族はひとつの集落に数人しか読める人がいない。他のところから来た手紙を読める人が音読するとき、自分が聞かないように耳をふさいで読むそうである。(ちょっとどこから来た話かはわからなかったが。)

情報の伝達に関して、学生が英文中の各単語の最初の文字と最後の文字だけを正しくして、語内の文字は適当に入れかえた文を作っても意味は通じる、という例を挙げていた。Alanは、文字の上半分だけを並べたものと下半分だけを並べたものでも似たような例があるといっていた。

裁判所で、速記者のために法廷で発せられた言葉をそのままもう一度言いなおす、という仕事があった。彼らを実験材料にし、どのような修正はされるがどのような修正はされないかということを調べることによって、MITのChomskyのグループが言語の認知過程に関して知見を得ようとした。(大島は理解し切れなかったが)その人がすでに知っていた内容は失われやすい(?)

CsikszentmihalyiはClaremontにいるので呼んでも良いかもしれないが、フローと言う概念を提唱した。問題が自分の能力に比べてあまりにも挑戦的だと不安になり、あまりにも簡単だと飽きてしまう。その中間の「フロー」と言う状態に入れば効率よく学習できるが、その状態にすることは難しい。「フロー」を広げるために「安全性」を追加して、能力が足りなくてもいろいろなことを心配なく試せるようにする、そして反対向きに注意を払うべきものを追加して、飽きないようにすることによってフロー状態を広げることが考えられる。テニスコーチのTim Goly(?) (正しくはGallwey)は天才的なコーチだが、飽きてきたように見える生徒に対して「ボールがこちらに来るまでに何回転している」とか「どのくらい影になっている?」といった質問を投げかけることによって、本人が自分が飽きかかっていると気づく前に注意力を引き戻していた。禅のように普段は自分が意識しないもの、呼吸とかそういうものに意識を向けさせるのは面白いことである。今のコンピュータUIはユーザーがどこにいるかも分かっていないが、20年くらい前にNicholas (Negroponte)とやっていた仕事のように、人間がどのくらいコンピュータに注意力を割いているかを測定できるようになって、適切なフィードバックができるシステムがあると良いかもしれない。

講義が終わったあと、喜多先生がちょっと紹介してくださった。うろうろしていたら学生さんが毛玉について質問してくれたりしたのがちょっとうれしかったな。名前は聞けなかったが、また今度話しましょう。