海辺のカフカ

一時離れていた村上春樹ですが、海辺のカフカ (上) (新潮文庫)海辺のカフカ (下) (新潮文庫)を読みました。なんで離れていたのかも思い出される内容でもありました。

続きを読んでもとくにねたばれと言うわけでもありませんが、気にする人は飛ばしてください。


本文中にも出てくるように、これは人間同士の関係性を、失われた半分を探す旅として記した話である。佐伯さんは自分の一部であったかのような恋人を失い、ナカタさんは影を半分失い、自分の中身を失う大島さんは、性同一障害であることによって、自分の中の男と女の両方を失っている。ジョニー・ウォーカー(父)は直接失っているものは描写されないが、何かを失ったために残酷性を発露せざるを得ない人間になっている。

「僕」は母と姉とを失っているのだが、カラスというもう一人の自分自身を持つところが主人公の「とくべつ」なところである。最初は損なわれているが失ってはいなかったものの、15歳の佐伯さんと知り合い、獲得と同時に失う。

血の受け渡しが行われた「僕」とナカタさんの間には、若くて強くどこかに行ってしまいたいと思っていた僕と、年老いて一度「そこ」へ行き、自分の中身が失って帰ってきたナカタさんという関係である。彼らはお互いをまったく知らないのだが、まるで社会の仕組みがそうさせたように、ナカタさんは、現実世界に対しては行為を起こさなかった強い(はずの)「僕」の身代わりとして、すべての能動的な行為を体現する。

僕以外の人は本当に自分を喪失していて、喪失の悲しさを抱えている。後に主人公も覚えるこの喪失感を共有できることが、この小説の強みだろう。

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雷に打たれたことのある父は「リンボー」に行ったのだろうか?自分を消してくれる人はそこに行ったことのあるナカタさんだけ、ということで、いわばfull circleをなしているのかもしれない。