Andreas Raab
14年来の同僚で友人であるAndreas Raabが40代半ばの若さにして亡くなってしまいました。すばらしい切れ味の頭脳を持ち、コードを書かせても間違いなく一級品、それだけではなくプロジェクトの統括もし、人々のグループをまとめてることもできる人でした(Alan KayやDavid Smithが「これまであったことのある奴らの中でも3本の指に入る」というだけのプログラマだったのです)。
彼と私との交流が生まれたきっかけはSqueakというソフトウェアプロジェクトでした。彼は1997年のMagdeburg大学在学中にSqueakの仮想機械をWindowsに移植したのですが、彼はそこでのやりとりを通じてAlan Kayを中心とするコアグループの人々に強い印象を与えたのです。Alanにしてみれば「もう連れてくるしかない」ということで、彼は博士号を取得後すぐに採用されてカリフォルニアに移り住み、あっというまに生産性の高い中心メンバーとなったのでした。
私も彼と同時期に東工大で博士課程の学生をしていたのですが、松岡聡先生を通じたやりとりから、Squeakの仮想機械をSharp ZaurusというPDAに移植するという作業をする機会を得て、Andreasが書いたコードを多大に参考にしつつ1998年になんとか動くようにしました。私もそれがきっかけでSqueakグループとの交流が生まれ、諸々の偶然も作用したために私もまたSqueakグループで働くようになったのですが、Andreasの切れを目の当たりにするたびに、「仮想機械を移植した若者が使い物になるという先例をAndreasが作ってくれたおかげで、はるかに能力の劣る私も紛れ込ませてもらっているのだよな」と思ったものでした。そういう意味でも「彼がいなければ今の私はない」という人でもあります。
彼は旧東ドイツの出身で兵役にも就いていたのです(優秀な若者が得られる兵役短縮の特典も得ていたのですが)。Bostonで狭い車に5人乗りして真ん中の席になったときや、大変に混雑した新幹線に一緒に乗ったときなどには、文句を言うこともなく姿勢よくしていて、「これはもしかするとそのような訓練の賜物かな」と思うこともありました。そういうルーツを持つものの、彼は自分自身を「生まれ変わらせること」に躊躇しない人でもありました。切れ者であるだけではなく人間的にも幅を持ち、カリフォルニアに来たからには煙草もやめ、起業するとなれば資本主義の原理に自分自身を浸すこともいとわなかったのです。それだけではなく、40も過ぎて身を固めるとなれば、愛する人を見つけて「愛と家庭の人」にもなれる人でした。「あのAndreasが?」という念は私だけではなく多くの人が持ったこととは思いますが、「変わり続けることによって自分自身でいられる」という言葉を具現しているようでもありました。ある日には一方の面に立って完全に筋の通った議論を展開し、数日後には反対の面に立って同じくらい良く筋の通った議論を展開することもできましたし。
そう、彼は愛と家庭の人なのです。私はたった16ヶ月前にあった、彼の結婚式に参加させてもらったのでした。そしてその後彼らが新婚旅行でカリフォルニアに来たときには、皆で家庭料理を一緒に作って楽しいひとときを過ごさせてもらいましたが、Andreasは買い物のときから料理のときまで本当に新婚生活を楽しんでいたのです。KathleenとAndreasは我が娘とペンパルになり、季節の折々にはいろいろな贈り物もしてくれました。残されたKathleen、そして生まれてくる子のことを思うと胸が痛みます。
彼が9/11の直後にSqueak開発者向けメーリングリストに書いたメールがあります。数千人の国際的コミュニティーだったので、事件直後には一部反米的コメントが行き交う場面もあったのですが、Andreasは「より良い未来のために我々はこのプロジェクトを続けるのだ」というメールを書いたのです。
http://lists.squeakfoundation.org/pipermail/squeak-dev/2001-September/028173.html
当時のSqueakコミュニティの多くの人は同様な思いを抱いていたと思いますが、その思いを簡潔に素早くまとめて実際に多数の人に書いたことに、私は強く感銘したものです。その後もこのメールのことは折につけ思い出していました。
残念ながら彼のこのようなメールを見ることもなくなってしまいました。が、我々はまさに彼の言う通りにより良い未来を作るために日々の努力を続けていくしかないのだ、という思いを新たにしています。