言葉のイメージ喚起力

俳句は一瞬の風景を写真のように切り取ったものと言いますが、これはいわばforward translationですね。それで、その俳句を読んだり聞いたりした人は句が詠まれた情景を頭の中に思い浮かべるわけですが、これは決してbackward translationで元のものに戻るわけではありません、当たり前ですが。

どちらかといえば句としての言葉が、聞き手の頭の中にしまわれているイメージ辞書のゆるい検索キーとなっていて、その検索結果がさらに句の付加的な情報によって修正され、最終的に一枚の写真のようになってくるのでしょう。古池や、といわれてもどんな古池かは五・七・五の中には書かれていませんし、季節だって奥の細道の中での文脈を押さえておかないとわかりませんからね。絵としては別に岩間寺の池を知らなくても、典型的な古池のイメージでよくて、そこに一瞬音として鳴り渡った空間のゆらぎという像が喚起できれば「勝利」ですから。

まあそんなことはどうでも良いわけですが、言葉とそれが喚起するイメージとの関係というのは、プログラム断片とその実行環境との関係にはあまり似ていないな、と。

ちなみに、俳句も詩なので、耳から聞いたときの音楽的美しさも重要です。Haikuは外国語でも作れる、という意見もありといえばありですが、「五・七・五が心地よく響く」というのは日本語ならではなので、外国語で5/7/5音節で作っても本来あるべき音楽的な要素がなくなってしまいます。日本語ラップとか英語オペラとかスワヒリ語カンツォーネとかと同様で。

さらに言えば、白人がラップを歌うのも、魂と言う意味ではおかしな気がするのと同様に、季節感の少ないところで俳句を詠むのは邪道なのかもしれません。本来は季節があってこそのものですからね。僕はその辺は許しますが。月が欠けるのを見てさえ涙できる人々向けの詩形式であることは確かでしょう。

まあどうでもよいんですけど。