UCLAと京大の講義

今日は京大側も学期が始まり、喜多先生、美濃先生、ダブル中村先生、ダブル渡辺先生および学生さんたちを大画面で見ながら(そういえばこの大画面はちょっとがんばっています)、学期初めの挨拶の後、Alanのお話。「講話」とでも呼ぶのが良いような気はかすかにしたりして。

 最初のほうは前回の話と似ていて、Negroponteの百ドルコンピュータがどう使えるだろうか。という話から。ViewpointsでインターンをしているLindaが、平たく言うと「パンか病気か死かというぎりぎりのところで生きている人々にとっては、百ドルコンピュータよりパンなのではないか」というコメントを投げかけた。面白い質問である。Alanの答えの一つは、例えば病気で死ぬ子供を救うには、一人一年当たり1ドルかけて予防接種を行うと大きな効果がある。原価90ドルのコンピュータを89ドルで作るようにして、89ドルコンピュータプラス予防接種注射キットのようにして販売することもできるはず、というものだった。米百俵みたいな話でもあるな。もう一つ挙げていたのは、過去の大きな進歩と言うのは最初に記念碑的大事業を打ち出し、実際の成果はその後何十年もかけて進むものである、ということである。宇宙計画は「月に人間を送る」という目的のために、サターンロケットのように40階建てビルの大きさの爆発物の端っこに3人の人間をちょっと置いておく、と言うとんでもないやり方で行われた。でも、その後25年間の宇宙研究の進歩は記念碑がなければ進まなかった。100ドルコンピュータもそのような記念碑的事業を目指している、というものであった。もしかしたら失敗するかもしれないが(僕が思うには"15-50"の目的が達成されないかもしれないが、と言うことに近いと思う)、それでも大きな企業を「おどろかす」には十分のはずなので、大きな効果が期待できる、ということである。

Negroponteは五月にゲストとしてレクチャーするらしい。(ということはそれまでにちょっとSqueakの最適化をしておかないといけない、と言うことなのか...)

 次はいつもの印刷術の年表。昔の日記に書いたことと同じだが、京大の学生さんがgoogleするかもしれないのでとりあえず書いておこうかな。

1400年ごろのは、本は今の価値で数百万ドル、宝石がちりばめられていたりしていた(宝石よりも価値があったということ)。鎖で机につながれていたり。10冊の本が水車のようなものに付けられていて、それをぐるぐるっとまわして取り出す仕組みがあったり。

1454年には、20冊のグーテンベルクによる本があった。そのころはまだ今の価値で6万ドルくらいのものだった。と、ここで「さて、グーテンベルクが発明したのは、実際には何だったのかしっているか?」という質問がAlanから出た。今回は驚くべきことに良く知っている学生がいて、「活版印刷そのものはグーテンベルク以前にあったが、同じ高さで幅の違う活字をたくさん作れるようにしたのがグーテンベルクの功績だ」と滔々と述べてくれた。これにはAlanも少々感銘を受けていたようである。僕も3年目だが、学生がこの質問に対してちゃんと答えたのは初めてだったもんね。Alanが補足したのは、「グーテンベルクは金細工師だったので、柔らかい金属を加工するのには鋳造する必要はなく、叩けば変形するということを知っていた。活字を作るのに、彼はまず手間をかけて鋼鉄で雄型(凸)を作り、それで真鍮をぶったたいて雌型(凹)を作り、そこに鉛を流し込むことによって最終的な凸型を作った。これによって一人で一日に253種類の文字(合字も含む)を表す20000個の活字が作れるようになり、本全体を効率よく印刷できるようになった。1500年ごろには、20000軒(人?)の印刷職人が誕生するくらいはやった。

ただそれでもまだ六百万円なので、気安く持ち運べるものではない。その後の進歩はAldus Manutiusによって1600年ごろ(150年後)にもたらされた。彼はヨーロッパを回って馬につるす革袋の大きさを調べ、それにマッチする大きさの本を作った(技術的進歩と言うよりは、「本って別に小さくたってよいんじゃん」という気づきの問題だったわけである)。これで数千ドルの価値の本になり、さらにその後プールにゴムボートを浮かべて読んでいて、甥っ子にいたずらされてひっくり返されても少しがっかりするだけですむようになった。

 Univacが数百万ドルの本、ワークステーションが6万ドルくらいの本、Alto、DynabookがAldusの本で、100ドルコンピュータは18世紀くらいの本に当たる。

 ある意味、まだ真の意識革命はされていないのかもしれない。ノーベル文学賞受賞者の中で、ノンフィクションで賞をとった人は、数人しかいない。このことが本や言語に関するリテラシーの停滞を意味しているとも言える。

賞をもらったうちの一人、バートランド・ラッセルは数学者なのにノーベル数学賞がないので文学賞をもらったようなものであるが。彼の言う文章を書くコツは3つあって、トピックセンテンスは修飾語を含まないように書け、二番目は判らなかったが、3番目はあまり賢くなりすぎるな、というものだった。そういうつもりでちょっと課題について書いても良いだろう。

FLEX(68年)のディスプレイはHP製だった。

PapertのLogoはタートルの局所座標で幾何学を扱うことにより、また小さい刻みを何度も何度も繰り返してコンピュータのほうが状態を管理するとやり方により、定数だけで円を描くプログラムが書ける。子供にとっての座標系はいつも自分が中心なので局所座標のほうがわかりやすいし、定数だけなのでさらに判りやすい。小さな刻みを何度も何度も繰り返す、と言うのは、微分形式で持っている式を積分することに当たるのだが、実際に物理学者や工学者が使う形式は微分形式であることが多いので、子供に最初から微分形式を教えることができる、というこのアイディアは、今までのコンピュータに関する最高のアイディアのひとつである。

 といわけでPARCのスライドだが、Dynabookを構想していたときにも、印刷術の進歩の類推から、真のコンピュータ革命は自分たちの生きている間には起こらないだろうということも判っていた。が、それでもそのプロセスをなるべくはやめるべく、70年代初頭の時点で80年代終わりにごろにどのような世界になっていたらよいかを考え、そこから今何を発明するべきか考えていった。ネットワークにつながる個人のコンピュータ、レーザープリンタなどなどは2ダースほどの人で、3年の間にできたことである。

が、PARCでやったようなことは、簡単なほうの話で、使う人のリテラシーの革命はまだまだ起こっていない。

 コンピュータにおけるリテラシーの革命はやっぱりまだまだ先である。同僚で友人のDavid Reedは90年代にはLotusのCTOをしていたが、そのときLotusが行った調査では70%の表計算データは内部にまったく式が書かれていなかった。数字の表があって列や行の合計が最後にあるような表でも、多くのものはその数値が手で計算されて入力されていたわけである。表計算ソフトは立派なエンドユーザープログラミングシステムになりうるのに。VisiCalcは良かったが、Excelは表に見える化粧部分があまりにもてかてかすぎて、表計算としての機能をちゃんとユーザーに見せることができていない。

 Negroponteは昔、"publishing, computer, entertainment"という三つのわっかがだんだん重なっていく絵を描いたスライドを良く使っていた。実はそれを探しているのだが、見つからない。

Dynabookのデザイン候補は3つあって、一番最初に考えたのはヘッドマウントディスプレイだった。大きなサイズの液晶パネルは、欠損ができやすいので小さいサイズのHMDの方が有利なはずだったが、世の中は思ったほうには進まなかった。アメリカのメーカーはフラットパネルディスプレイには長いこと興味がなく、日本はテレビ用のパネルに目が行っていたので、なかなかコンピュータ用のフラットパネルが出てこなかった。

Brunerは最高の心理学者で、彼の心理学における(adaptive...なんとか)のアイディアは、GUIを最初にデザインしていたときに大いに参考になった。90だがまだグアンタナモベイの監獄の問題に関して発言したりなど、活発に活動している。

 Bettyの机の話と、かえるの話がでて終わり。かえるがなぜ動いているものであれば段ボールのかけらでも食べるが、それをしないように教育できないのか、ということには理由がある。視神経が伸びていて網膜は脳の一部のようなものだが、かえるの網膜は信号処理的なことをするだけではなく思考の一端も担ってしまっている。そのためいくら教育してもダンボールのかけらを食べないようにはできない。