UCLA - 京大の遠隔講義

討論形式です。子供に科学・理科を教えるときの注意点について考えるために、例えば進化論と創造論の対立のようなことを考えてみよう、という切り出しで始まりました。俺としては内心がっかり。世の中の人が(カール・セーガンとか)、創造論について話をする必要さえなければもっともっとその能力を有効な方向に使えるのに、と思ってしまうので、ここでわざわざ話すねたにはしてほしくなかったなあと思ってしまうわけです。

アメリカの学生さんにとっては、この対立はもう日常的に、「いまそこにある対立」なのでみんな一家言あるわけですが、日本の学生さんにとっては、ちょっと相当にとっつきにくいことであったのではないかと思われます。でも、今回は京大側からの意見もいくつかあったので良かったです。

http://d.hatena.ne.jp/squeaker/20050114#p1に書いた、教科書の注意書きの話も出ました。

僕が思ったのは、「進化論は日本的な宗教観、文化的刷り込みと相容れないものではないから」ということです。発言したのは以下のようなことです。3歳児が虫をいじめていたりしたら、母親は「虫をいじめてたら、虫に生まれ変わって自分がいじめられる番がくるよ」というようなことを言います。このように、日本の文化では生まれ変わって別の生き物になる、という考えは文化的に子供のころからなじんでいるので、後に学校で人間は下等な動物から進化した、と言われても「致命的哲学的矛盾」はないわけです。

(日本人の宗教観は非システム的な部分が大きいとは思いますが、「日本人は無宗教だから」という言明はだいぶん間違っていると思います)。

キリスト教国では、神が自分に似せて人間を作って、動物達は人間の役に立つために神様が一緒に創ってくれた、というストーリーを先に聞いてしまうので、進化論が致命的に矛盾してしまい、議論になるのだろうな、と(ということを言った言い方には、あまり先週の反省が生かされていなかったかも、と思ってちょっと後でまた反省してしまったわけですが)。

いずれにしても進化論の話を変えたかったので、「日本ではABO血液型と性格に関連があると思っている人が多い。これは学校で教わるわけでもないのに70%, 80%の人が信じていて科学の衣までまとっている。なぜ血液型性格判断のようなものが受け入れられているのか話し合ったら面白いかも」と言ったのだが、あっさり流されてしまいました。「教室内でどう科学を教えるか」という主題からはずれてしまっていましたので。ただ、科学をどう教えるか、という話としては面白いと思ったんですけどね。

「科学は簡単に見つけたりできることを扱い、宗教は信念を扱う。哲学は、その間にあって、調停と意見交換について扱う。3つの輪があるベン図だと思ってみると、それぞれの領域に何があるのかを考えてみるのはとても興味深い」というのはBertrand Russellの言葉を引用したAlanの話でした。

そうそう、それからなんとなくここに書いておきたいのですが、過去数週間の講義録は、Alanが自分で話をまとめて講演している、というわけではなく、学生の質問や意見に対してAlanが反応したり思い出話をしたりした、というスタイルになっています。なんとなく、昔のことばっかり言っているだけでおかしな授業なのかな、という印象を与えているかもしれませんが、そんなことはないです。「新しい話」はあまりおおっぴらには書けないこともありますし。という点にはご注意ください。